2012/01/31

きなこヨーグルト

まさかのおいしさだった。

【レシピ】
・食べておいしいと思う、ほどよい甘さの、きなこ
・プレーンヨーグルト

きなこ1×ヨーグルト3

くらいを適当に混ぜるだけ。
簡単でおいしい。

お正月になると、あべかわを食べたくなり、きなこを買う。
一袋使いきる前に、あべかわに飽きるので、きなこが余る。

花粉症を和らげるために、毎日ヨーグルトを1年食べ続けるといいと聞き、
バナナ、プルーン、ココアパウダー、そのままといろいろ味を変えながら
まあまあ1年食べていた。

嫌いではないものの、大好きではないものを食べ続けるのは、結構難しかった。

寒くなってヨーグルトは食べたくない時期に入り、せっかく食べ続けてきたのに、もう終わりか‥と思った時の苦肉の策。

きなこが、大当たりだった。

甘すぎるヨーグルトは好きではないので、このほどよい甘さときなこの味。

救世主に救われた。
これで、ほんとに花粉症が軽くなったら、いいな。

2012/01/22

湿気

おととい、雪交じりの雨が降った時は、
久しぶりの湿気に、やった~と言いたくなった。
いや、窓を開けて、実際にやった~と言った。
長かった乾燥した日々から解放された。
湿気が、こんなにありがたい、と思ったのは、
生まれて初めてかもしれない。

小さい頃、湿気の多いところで育ったのもあって、
湿気がありがたいと思った記憶はない。
どちらかと言うと、湿気を恨めしく思っていた。
大好きなマンが本を部屋の隅に積んで2週間ほど置いておいただけで、
下の方から何冊かカビが生えていたことがあった。
冬は天気のいい日も少なく、いつもじめじめしていた。

関東に住んでいた叔母が遊びに来て、
雪が積っている時に洗濯物を干している事に驚いていた。
雪が積っている上に干したら、洗濯物が湿気るんじゃない?
と言っていた。
雪が積っているかどうかに関係なく、
一瞬の晴れ間に洗濯物を外に干すのは、当たり前のことなのに、
何を驚いているのだろうと思った。

湿気の多い田舎を出て、東京に住み始めた頃、
秋~冬のカラッとした感じが、
なんて気持ちのいいものなんだろうと思った。
洗濯物の乾きが、異様に早い。
関東に住んでいた叔母が、驚いていた理由がわかった気がした。

3日前まで、のどが痛い、のどが痛い、と思っていたら、
30日以上雨が降らない日が続いていたようで、すごく乾燥していた。
タオルを濡らしてかけても、洗濯物を部屋の中に干しても、
すぐに乾いてしまう。
おそろしい乾燥具合だった。
乾燥で、呼吸が苦しいような感じもしていた。
そこに、恵の湿気。

だけど。
3日も雨が続くと、1日くらい晴れてくれてもいいのにな、
と、3日前の感動は、すっかりなくなっている。
思った所で、天気は思い通りにはならない。

晴れが続くと加湿器がほしくなり、
雨の日には除湿機がほしくなる。
もし、いろんなものを手に入れて使えば、
適度な湿気、適度な乾燥で、快適に過ごせるかもしれない。
本当は思う通りにならない天気を、
思い通りにしてしまっているような錯覚を起こしそうだ。

雨が続くと、少し晴れた方がいいなとは思うけど、
あの、乾燥した息苦しさを考えると、
以前よりは、湿気を楽しめるようになったかもしれないと思う。

2012/01/21

タイトルが思いつきません

何も言わないで言葉が出てくるまで待ってくれる、
すぐに答えを出さないで話を聞いてくれる、

これを実践するのは、すごく難しいことだったんだと、
改めて思った。

意味のある言葉を言わなくてもいいと思えること、
何の役割もなくその場にただ居られること、
何の役に立つことをしなくてもいいと思えること。

もし、みんながそう思えたとしたら、
電車の中で、どういう会話が聞こえてくるんだろうな~。

誰かに何かをしてあげて満足すること、
何かをされる役になって人を満足させること、
その歯車がピッタリ合っていることが多いのだと思う。

その歯車から外れて、自分は本当はこうしてほしいんだと言うためには、
自分が本当に必要なことを知る必要がある。
自分が本当に必要なことは、一人で考えていても、なかなか出てこない。
そこに気づくのに会話が必要なんだろうと思う。

何かをしてあげて満足するという気持ちも持たずに、
どうこうしようとしないで話を聴いて、
答えを出さないで、言葉が出るまで無言で待っていてくれる、
お互いにそういう風に会話が出来たら、
本当に自分にとって必要なことを自分で気づけるんだろうな、
と思う。

2012/01/15

失うと怖いもの

お金を失っても、仕事を失っても、信用を失っても、死にはしない。

ただ、自信を失ったら死ぬかもしれない。

自信を失い続けるというのが、一番「死」に近づく気がする。


それと、一番失ったら怖いのは、自分の周りの人が死ぬということ。

自分が死ぬより、自分の周りの人が自分より先に死んでいく方が、ずっと怖い。

人魚の肉を食べて不老長寿になった人の悲しい伝説が、私の生まれ故郷に残っている。

何百年も歳をとらないで、自分だけ生き続ける‥これ以上怖い話はないと思う。

お金

今は、お金があれば食べ物を買える。

食べ物を買えば、ありがとうございます、と言われる。

温かい飲み物を手にすることもできる。

お金がなかったら寒い時に、温かい食べ物も飲み物も手に入らない。

もし、お金がなかったらと考えただけで、身震いがする。

お金に縛られないで、お金が無くても怖くない時がくるのかな?と思うことがある。

お金があっても何も手に入らない時もある。

口に入れるもので、何一つ、自分一人で作れるものはない。

怖いのはお金だけに留まらない。


怖い場所で怖くない雰囲気を作らないと、いい風には行かない。

と、テレビで言っていた人がいた。

怖くない雰囲気を作っていくのは自分自身なのかもなと思う。

2012/01/09

ほっこり違い(ラジオ完結編)

新年早々風邪をひき、
治ってすぐに、田舎に帰ってきた。
つまみのとれたラジオと、新しい乾電池を持って、
母に会いに行った。

つまみがとれているけど、電池を入れれば電源がつくと伝えた所、
「新しいのはいらんよ、それでいい。何か聞こえればな。」と母。

・・・だから、つまみがとれてて、チューニングを合わせられないんだってば。。。
砂嵐しか聞こえないし。。。。。

と思った時に目に入ったボールペン。
ペン先で、つまみのとれた辺りを、
ちょいちょいと、つついてみた。

手ごたえがあった。
局が動いた。

人の声が聞こえる所までたどり着いた。
「それで、ええわ。ありがとう」と母。
ふ~と一安心。

と思った瞬間。
母がラジオをろくに聞いてみもしないで、
ぱっとラジオをベッドに置いた。

その瞬間イラッとして、
「ちゃんと聞いてみなよ!」と口走っていた。

苦労してせっかく聞けるようになったラジオを、
母があんまり大事に扱っていないように感じていた。

ラジオがないと不便だろうか、
新しいのを買った方がいいだろうか、
持って行っても聞こえなかったら、どこに買いに行こうか、
と、今までいろいろ気にかけていたのに、
なんだよその態度、と思った。

こうして、
私「ラジオ聞いてみなよ」
母「後で聞くって」
私「別にラジオいらんかったんか(怒)」
母「はいはい、ありがとう」
私「はいはいってなんや!もう会いにこんからな!!」
・・・
と、いつもの口げんかに発展する。

その時には、ラジオを聞くより、
久しぶりにあった娘と話をしたかったんだろうな~
ということは、全く頭に浮かんでこない。

ひとしきり口げんかして、だんだん怒りも消えて、
「またな」と言って別れる。
また、と言いつつ、また、はないかもしれない。
母と会うのは疲れるけど、別れ際は寂しい。

母に会った日の感想は「ほっこりする」がぴったり。
ほっとしたような感じのほっこりでなく、
疲れたという意味のほっこり。

私の田舎では、「ほっこりする」というのを、
「疲れた」という意味で使う。
ほっこりに、疲れたという意味があることを、
今回、田舎に帰るまで忘れていた。

「ほっこりする」の「疲れた」の中には、達成感というか、
やり遂げた感じというか、できて良かったというか、
そういうようなニュアンスも、含まれているような気がする。