前に、辛島文雄さんにジャズピアノを習ったことがある。
小さい頃からのピアノのレッスン代をもったいなく思って、
今までいくら払ってもらっていたか計算して、
これはピアノで取り返すしかないと、思いこんでいた頃のこと。
辛島さんのピアノは、恐ろしいほど音がきれいだった。
音色ってこのことか、本当にこれがピアノか、と思うほど。
ライブにも何回も行った。
メンバーと息がぴったり合わないと、超越技巧になってしまうけど、
ピタッと合った時の音色は、雲の上に寝転んでいるようで、
あんなピアノがどうやったら弾けるんだろうと思った。
実際に習ってみたら、それはもう厳しくて、というより、
毎回毎回、怒鳴られまくる。
1年くらい続けた後、私が無理にピアノを弾かなくてもいいか、
と、ピアノは諦める結果となった。
辛島さんに一度だけ言われて、今でも覚えている言葉がある。
「ジャズピアノを弾くのに、人生で無駄なことは何一つない」
そうか、何も焦らなくても今でなくてもいいのか、
と思った記憶がある。
その後は、目標もなくなって、何をやってるんだかな、
と思いながら仕事だけしてた時に出会ったのがWRAP。
そして、IPS。
縁が切れるかなと思ったことは何度かあったけど、
不思議と今も縁が切れずにいる。
その代わり、今、縁が切れそうなのが、仕事。
ずっと探してきて、ここにはなかった…というショックから、
まだ抜けられない。
「何かをする」ために無駄なことは一つもない、
と、唱えてみたところで、やっぱり、
今は無駄なことをしてるんじゃないか、と思ってしまう。
具体的に、これです!というのはわからず、
こんな感じのこの辺を目指してます、となると、
ますます、この道でいいのか?と戸惑ってしまう。
しかしもう、今の仕事の先に、こういう感じは無い、
というのは、ほぼ明確になったのだから、
と言っても、やっぱりまだ、はいそうですか、
と言える気分にはなれない。
前に友人が、ボソッと言っていた言葉があった。
中心になってワークショップのファシリテートをしていた人が
病気でワークショップを出来なくなってしまって、
友人が代わりに中心となってワークショップをするようになって、
数年たった頃のことだった。
「病気で来てもらえなくなったから、今のようなワークショップができあがったのかもね。もしずっと来てもらっていたら、今のようなワークショップは出来上がらなかったかもしれない。」
その時の、淡々とした話しぶりは、いろんな人がこうでもないああでもないと関わりながら、出来上がってきたワークショップの形を喜びながらも、ちょっと寂しそうで苦しそうな、なんとも言えない表情だった。
何かを終えると何かがやってくることもある。
誰かがいなくなったから、出来上がってくることもある。
それは嬉しい事でもあるけど、やっぱり時々、寂しいことでもある。
これからも、こういう風に、いろんなことが繰り返されていくんだろうな。
変わらないようで変わっている。
でも変わってないこともある。
年を重ねるってこういう感じなのかな、と思った。
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