2014/05/12

会話ではない話

人話すとすごく疲れる時がある、と、ふと思った。
疲れない時もある。
どうしてだろう?

言葉を聞いて、頭を使って疲れているような気がするときもある。

私はクロネコと一緒に育った。

たぶん私が3~4歳くらいだった頃のある日。
5歳年上の姉が、排水溝に落ちて死にそうだったと、泥だらけのネコを拾ってきた。
ネコを拾ったせいで、同じように泥んこになっている姉を見て、
母が、そんな危ない目をして、拾ってきたっていったいどうするの!
とぎゃーぎゃーと半分怒っていたが、
とりあえず洗ってみようということになって誰かが体を洗った。
泥だらけで、ミーミー泣くネコは、洗ってもきれいにならず、
毛が乾いた所で、みんな、ああクロネコだ!と気がついた。

家族中で、こんなに小さいのに何を食べるんだと大騒ぎになり、
牛乳をあげてみよう、ニボシをあげてみようと、母がお皿に出したら、
どんどん食べて、みんなで「よかった~」と言ったのが記憶にある。
それからしばらく、そのネコのために、
山もりのニボシと牛乳が玄関に置かれるようになった。

その日から高校を卒業するまで、そのネコと一緒に暮らし、
私が22歳の時、父に看取られるまで、18年くらい実家に住んでいた。

4人兄姉の末っ子だった私は、そのネコと、よく一緒にいた。
小さい頃は、いたずらをしては、ひっかかれたり、遊んだりした。
中高生くらいになると、気心のしれた仲になって、
なんとなく、ちょっと顔を合わせるだけの時期もあれば、
部屋で長い時間、話をすることもあった。
もちろん言葉で会話はしたことはない。

結構気ままに、どっかに行ってしまうこともあったけど、
なんとなく私が元気のないことがわかると、
出かけるのをやめて、近くにいてくれたりした。

かとおもえば、私が宿題に追われて必死で机に向かっている時に、
開いているノートの上に、ドカーンと寝そべってきて、
どかしてもどかしても、私の目の前にどどーんと寝て動かない時もあり、
そういう時は、ノートを横にずらして、頭をなでながら宿題をした。

不思議と、お互いに、今相手がどんなことを思っているかが、
なんとなくわかっていたような気がする。

時々「私は、あんたが死んだら生きて行けないような気がする、長生きしてね」
という話をした。
クロネコは、お腹をゴロゴロいわせながら、澄ました顔で、
ちょっと耳をぴくっとさせて聞いていた。
「私はあんたがいなくても、ご飯をくれる人がいたらいいけどね」
と言っているような顔で。

会話はしてないはずなのに、なんとなく話が通じているような気がした。

人と話す時も、ネコと話をしているような感覚で会話できる時は、
疲れないなあ、と思ったりする。

クロネコとの思い出を思い出しても悲しみに呑まれないくらい、
時間が過ぎてくれたのは、ありがたいことでもある。
まだ、思い出を書こうとすると、手が止まってしまう時もあるけど。

もし、あのクロネコと会っていなかったら、どうなってしまったんだろう、
と恐ろしくなるときもある。
ゴロゴロとかわいい所も、生まれた時に充分に育ちきっていない子どもを食べる習性を見た時も
ネズミを捕獲してきたことも、戦って傷だらけになって帰ってきたことも、
起きると私のお腹の上で寝ていたことも、
買って1か月のウォークマンに、おしっこをかけられたことも、
ネコとの生活は、答えの出ない、いろいろが詰まっていた。
それがなければ、今以上に傲慢な人間になっていたんじゃないか、
と思うと、本当に恐ろしい。

動物を助ける、というのが一方通行になることは、ありえないんだなと、しみじみ思う。

人を助ける、動物を助ける、そういうことが一方通行になった時に、
あなたのために頑張っているのに、どうして・・・
どうしてこんなにしているのに、思う通りにならないんだろう、
っていうような怒りが湧くのかな?
と、ぼんやり思ったりもした。


なんだかんだ言っても、
ひとつだけ声を大にして言いたいこと。
それは・・・

私はネコがすきだ!

ということです。

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