2014/05/25

出会い

ひょんなことから、韓氏意拳(かんしいけん)の講習会というのに行ってみた。
おもしろかった。
出会うべくして出会うということって、あるんだな~と思った。

説明できる気がしないので、言われたことを思い出して、そのまま書いてみます。


武術ですが、動くことよりも説明の方が長いです。
いろいろ追及していったら、見た目あんまり武術じゃない感じになりました。
という、前置きの話から始まった。

・「こうしなければならない」という考えが、一番自然な動きを邪魔する。
・もうすでに、自分の体を使っていて、自然と歩いて、ここまで来ている。
・体を100%使えばよいだけ。
・意識をしていないだけで、すでに自然に動いている。
・一番動きやすい動きって、どんな動きだろう?

実際に、手を前や横に動かすという簡単な動きをしながら、
ちょいちょい、話が付け加わっていきました。
動きをマネするではなく、動きが体にどう伝わっていっているか、
体が常に準備(いつでも足踏みできる状態)になっているか、
というようなことを、感覚として掴んでいく感じかな?と思いました。

・体の機能、あるものは全部使ったらいい。
・ぼーっとするでもなく、何事もないように振る舞っている余裕もない、常に必死。
・自分の体を充分に使えているか。
・手の動きを感じてみる。
・体全体を使っていると、手だけを動かしているつもりでも体のどの部分も動いている。
・体のどの部分かが止まっていると、ぎこちない動きになる。普段はそんな動きはしてない。

・誰かに腕をつかまれると、体が身構えるのは当然。
・相手がこう来るだろうから、こう避けようというのは、過去の幻想にしがみついているだけ。
・相手にここに打ってきてほしい、というくらいなら、殴らないでと言った方がいい。
・どこから攻撃があったとしても避けられる、どうのようにも動けるような。
・1点を意識してしまうと、とっさの対応ができない。自由な動きはできない。
・自分の体、手とか足とかはいつも仲良しなので心配することない。
・力を込めたくなるのは、自分の力を信じられない時。

・力を入れると弱くなってしまう
・自分の感覚
・何もはっきり区別できるものはない。
・緑の中にいると自然っていいな、と言うが、自分の体も自然。
・体のどこかが動かないなら動かないなりの最大限を。
・手を天井にと言われた時に、出来ているかチラッと確認するのは到達していない証拠。「うまくできたかな?」と確認するのは、その瞬間過去に縛られている。
・ネコに近づいた時に、ネコが身構える姿を思い出して、そのイメージで。
・急に気がついてパニックに、ということがないように、いつも、準備している感じ。
・いつ何が起こるかわからない、という危険はいつもある。
・災害などがあると、そのこを教えてくれる。
・平和ボケをするような幸せな環境にある、というのはありがたいことでもある。

・腹筋がなくても起き上がれるように、自然と手や足が動いている。
・自然にできている=自覚がない。
・実感がないから、うまくできた、というのがわからない。
・なので出来た時に、どうして出来たというのは考えなくてもいい。わからないから。
・今動いている感覚だけ。
・とても強い力を出して相手に殴りかかって、相手に避けられると、ダメージが大きい。
・力で押す時は、相手が押し返す力がないと、その場に留まれないし、相手が引いていまえば前につんのめる。
・力を使うということは相手に依存しているのと同じ。
・「問題」に頭で考えて解決をしてしまうと、また新たな問題が増えるだけ。
・相手に押されると押し返してしまう、というような自分の「問題」は、気づいた時点でほぼ解決。
・「問題」が全く解決しないのは、気づいていない時。
・歩き始めた子が体全体を使っている時、自分の機能をフルで使おうと試している。
・その時の楽しさの記憶はなく残念だが、その時の感覚を、味わいなおそうとしている感じかも。

・武術というのは、常に危機の状態。
・避けなければ死んでしまうという時にする行動。
・相手を傷つけることが目的ではない。
・おそらく見ている人は、どこが武術ですか?と思うだろう
・こういう会に来る人は変わった人、まあ、変人です。変人と思っておくのもいいでしょう。

・夜更かしした次の日、2時間遅く起きるというのが体の自然な流れとしても、2時間遅刻して仕事に行くというのは難しい。そういう世の中で生きていく、ということも前提としている。熟練した人々もそのズレには苦労すると言っている。


何かを追及するのが楽しくてしょうがない人の話はおもしろい。
先生に、韓氏意拳を始めたきっかけを始めたきっかけを聞いた。

そしたら。
もともと武術を習っていた師匠がいて、その人がある講習に出て帰ってきたら、
急に「今まで教えたのはウソでした。解散します」と言い、
興味のある人は、こっちを一緒にやらない?と誘われて行ったのが韓氏意拳だった。
というのも、なんと魅力的!と思った。

東中神という初めて降りた駅は、人がわんさかいる駅から、3つくらいしか離れてないのに、
生まれ故郷にある駅に似ていて、そこをちょっとにぎやかにした感じだった。
おばあちゃんが、駅前で座って井戸端会議をしていたり、
ちょっと歩くと、木枠の窓の家があったり、ほっとする感じだった。

駅前で、おばあちゃんが売ってた、大根やら玉ねぎは、帰って食べたらおいしかった。
ばあちゃんの話は長い、っていうのも久しぶりに味わって、
なんとも、おもしろい日だった。

2014/05/14

名前を伝えるということ

自分の名前を伝えることほど面倒なことはない。
はじめに、私が名前一つでひねくれるようになったのは、
名前が悪いからだ!!!と、責任逃れをします。

私は「優子」という名前。
名前を聞かれて漢字を説明するたびに、
「じゃあ、優しいんですね」と言われることが多かった。

優しいんですね?ってなんだ?

優しいんですね、と言われるたびに困惑してきた。
優しいかどうかはわからない、
優しい時がないわけでもないが、優しくない時もある、
優しくしなければいけないんだろうか?
そもそも、優しいとは何なんだろうか、

わからない・・・だんだん腹が立ってくる。

今日は人に優しくできなかったな、と思った日に限って、
この優しさとはなんだろう?というワナに、はまってしまう。

この名前でなければ、こんなに優しさについて考えなくてもいいのに、
と、また、腹が立つ。
あああ、疲れる。

少し年を食って、最近では、名前の漢字を説明する時に、
「優しい子と書きますけど、優しくはないです。名前だけです。」
と、言うようになった。
そうするようになってからは、優しいんですね、
とは言われなくなったように思う。

ただまあ。
伊賀さんという人に出会った時に、
「祖先は忍者ですか?」
と、瞬時に口から出ていた自分のことを思うと、
「優しいんですね」も、そう深い理由はないんだろうな、
とは思う。

名前だけで、人から何度も繰り返し言われることが違う、
とすると、一人ひとり見た目も何もかも違うわけなので、
だれが、周りの人から、どんなことを言われ続けているかなんて、
わからないもんだな、と思ったりもする。

名前を聞いて、はあ、そうですか、というのも失礼かな?
と思う時もあったりするけど、
自分は、はあ、そうですか、と言われたいなと思う。

いったい、どうすりゃいいんだ・・・。
ああ、面倒だ面倒だ。

名前は面倒だ、と思うけど、
誰にも名前がなかったら、
それはそれで、困ることもあるのかもしれないな、
と思ったりもする。

2014/05/12

会話ではない話

人話すとすごく疲れる時がある、と、ふと思った。
疲れない時もある。
どうしてだろう?

言葉を聞いて、頭を使って疲れているような気がするときもある。

私はクロネコと一緒に育った。

たぶん私が3~4歳くらいだった頃のある日。
5歳年上の姉が、排水溝に落ちて死にそうだったと、泥だらけのネコを拾ってきた。
ネコを拾ったせいで、同じように泥んこになっている姉を見て、
母が、そんな危ない目をして、拾ってきたっていったいどうするの!
とぎゃーぎゃーと半分怒っていたが、
とりあえず洗ってみようということになって誰かが体を洗った。
泥だらけで、ミーミー泣くネコは、洗ってもきれいにならず、
毛が乾いた所で、みんな、ああクロネコだ!と気がついた。

家族中で、こんなに小さいのに何を食べるんだと大騒ぎになり、
牛乳をあげてみよう、ニボシをあげてみようと、母がお皿に出したら、
どんどん食べて、みんなで「よかった~」と言ったのが記憶にある。
それからしばらく、そのネコのために、
山もりのニボシと牛乳が玄関に置かれるようになった。

その日から高校を卒業するまで、そのネコと一緒に暮らし、
私が22歳の時、父に看取られるまで、18年くらい実家に住んでいた。

4人兄姉の末っ子だった私は、そのネコと、よく一緒にいた。
小さい頃は、いたずらをしては、ひっかかれたり、遊んだりした。
中高生くらいになると、気心のしれた仲になって、
なんとなく、ちょっと顔を合わせるだけの時期もあれば、
部屋で長い時間、話をすることもあった。
もちろん言葉で会話はしたことはない。

結構気ままに、どっかに行ってしまうこともあったけど、
なんとなく私が元気のないことがわかると、
出かけるのをやめて、近くにいてくれたりした。

かとおもえば、私が宿題に追われて必死で机に向かっている時に、
開いているノートの上に、ドカーンと寝そべってきて、
どかしてもどかしても、私の目の前にどどーんと寝て動かない時もあり、
そういう時は、ノートを横にずらして、頭をなでながら宿題をした。

不思議と、お互いに、今相手がどんなことを思っているかが、
なんとなくわかっていたような気がする。

時々「私は、あんたが死んだら生きて行けないような気がする、長生きしてね」
という話をした。
クロネコは、お腹をゴロゴロいわせながら、澄ました顔で、
ちょっと耳をぴくっとさせて聞いていた。
「私はあんたがいなくても、ご飯をくれる人がいたらいいけどね」
と言っているような顔で。

会話はしてないはずなのに、なんとなく話が通じているような気がした。

人と話す時も、ネコと話をしているような感覚で会話できる時は、
疲れないなあ、と思ったりする。

クロネコとの思い出を思い出しても悲しみに呑まれないくらい、
時間が過ぎてくれたのは、ありがたいことでもある。
まだ、思い出を書こうとすると、手が止まってしまう時もあるけど。

もし、あのクロネコと会っていなかったら、どうなってしまったんだろう、
と恐ろしくなるときもある。
ゴロゴロとかわいい所も、生まれた時に充分に育ちきっていない子どもを食べる習性を見た時も
ネズミを捕獲してきたことも、戦って傷だらけになって帰ってきたことも、
起きると私のお腹の上で寝ていたことも、
買って1か月のウォークマンに、おしっこをかけられたことも、
ネコとの生活は、答えの出ない、いろいろが詰まっていた。
それがなければ、今以上に傲慢な人間になっていたんじゃないか、
と思うと、本当に恐ろしい。

動物を助ける、というのが一方通行になることは、ありえないんだなと、しみじみ思う。

人を助ける、動物を助ける、そういうことが一方通行になった時に、
あなたのために頑張っているのに、どうして・・・
どうしてこんなにしているのに、思う通りにならないんだろう、
っていうような怒りが湧くのかな?
と、ぼんやり思ったりもした。


なんだかんだ言っても、
ひとつだけ声を大にして言いたいこと。
それは・・・

私はネコがすきだ!

ということです。

2014/05/08

あがきたくなる時

自分が自分で無くなるような感覚が時々来る。

急にくる。

急に、ペトっとまとわりつかれて、

重たくのしかかってくるような感じがする。

こういう時は、何もうまくいかないように感じる。

そのうち、そんなこともスッと忘れてしまうほど、軽やかな感じがくるのもわかってる。

のですが。

早く何とかなってくれたら、と、思う。