2013/10/21

言葉になっていない感情を言葉にして縛る怖さ

人の話を聞いて、ああ自分もそう思うな、と思うことがある。
うんうん、自分もそう思うと、自分の気持ちの整理ができて、
新たな発見ができてスッキリする。

ふと、同じスッキリでも、自分の内から出てくる言葉を待たなくても、
一瞬はスッキリできる落とし穴があるように思った。

たとえば、言葉にならないたくさんの自分の感情がある時、
人から「あなたはこういうタイプの人だね」とか
「単なるわがままだね」とか
「それはこういうことで、こういう病名ですね」などと断定されたとすると、
わからないものが分かった気になって、
一瞬はスッキリした感覚が味わえるのかもしれない。

怖いのは、本当に自分の中から湧き出た言葉でなくても、
はっきり言われることで自分はこうだ、
思うようになるのかもしれない。
それを自分で吟味しないでいるうちに何が起こるか。
自分の枠を自分で作っていくことになるのではないか。

やってもない犯罪の取り調べを受けるうちに、
自分が犯人だと錯覚を起こすように。

言葉にならない自分の感情の中に居続けるのは、
あまり気持ちのいいものではないのかもしれない。

自分の目の前にいる人が、言葉にならない感情のうずの中にいると、
こっちまで不安になって「それはこうだ」と言いたくなるのかもしれない。

人から言われたことが自分の中から出てくる言葉と同じこともある
違うこともある。

自分が感じて出てくる言葉やら、自分の声を、
じっくり吟味できる時間って大切だなと思った。

あなたの感情はこうだ、あなたの気持ちはこうだと、
誰かが誰かを断定することも、されることなく、
誰もが自分のことを吟味できる。

WRAPクラスっていうのは、そういう空間だから、
終わった後に晴れやかな気持ちになるのかなと思った。

今回、福井でのWRAP2日間は、
進行するという役割を邪魔だと感じることもなく、
参加して輪の中に入っている感覚もずっとあって、
とても楽しかった。
ファシリテートをすることも楽しい、
これは、新しい発見だった。

昨日、福井からの帰り際に、福井駅で買った
八百比丘尼の椿がカギになっている、西村京太郎の本を読みながら、
今日は、つらつらと、そんなことを考えた。


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