ふと、同じスッキリでも、自分の内から出てくる言葉を待たなくても、
たとえば、言葉にならないたくさんの自分の感情がある時、
人から「
「単なるわがままだね」
「それはこういうことで、こういう病名ですね」など
わからないものが分かった気になって、
怖いのは、本当に自分の中から湧き出た言葉でなくても、
思うようになるのかもしれない。
それを自分で吟味しないでいるうちに何が起こるか。
自分の枠を自分で作っていくことになるのではないか。
やってもない犯罪の取り調べを受けるうちに、
言葉にならない自分の感情の中に居続けるのは、
自分の目の前にいる人が、
人から言われたことが自分の中から出てくる言葉と同じこともある
違うこともある。
自分が感じて出てくる言葉やら、
じっくり吟味できる時間って大切だなと思った。
あなたの感情はこうだ、
誰かが誰かを断定することも、
誰もが自分のことを吟味できる。
今回、福井でのWRAP2日間は、
進行するという役割を邪魔だと感じることもなく、
参加して輪の中に入っている感覚もずっとあって、
とても楽しかった。
ファシリテートをすることも楽しい、
これは、新しい発見だった。
昨日、福井からの帰り際に、福井駅で買った
八百比丘尼の椿がカギになっている、西村京太郎の本を読みながら、
今日は、つらつらと、そんなことを考えた。
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