自分が本当にしたいことを、じっくり自分に問い直すのは、
人のためでもあると思う。
今、自分がしていること、仕事やら何かは、
すごくしたいか、ちょっとしてみたいか、程度の差はあるにしても、
自分がしてもいいかな、と思って選んだことだと思う。
たとえば、あ、違うな、と思っても続けるとすると、
本当にこれが、自分のしたいことなのか、という感覚がにぶる気がする。
もし、働いている人10人が、みんな、あ、違うなと思いながら働いたとしたら。
100人がそうだったら。
10000人がそうだったら。
以前に、怖い実験の話を聞いた。
うる覚えだが、こんなような話。
まったく関係のない人2人がいる。
一人は電気椅子に座る係。
一人はモニターで電気椅子に座った人を見ながら、電気を入れる係。
ただ、指示された通りに2人は役割を演じる。
必ず言われた通りの役割をしなければならない、という設定。
電気を入れる係の人は、スイッチを定期的に入れなければならない。
最初は、座った人が痛がるので、躊躇しながら恐る恐る押す。
でも、数日経つと、だんだん慣れて、
モニターで痛がっている人を見ても、ためらいなく押すようになる。
1週間もすると、スイッチを押すのを楽しんでいるかのように見える。
電気椅子に座っている人が危ないということで、1週間で実験は中止になった。
実験の後で、インタビューをしていた。
スイッチを入れる役の人は、最初は怖かったけど、
だんだん楽しくなって、ためらいもなくなった、と話していた。
椅子に座った人は、もう頼まれてもしたくない、と言っていた。
これは実験で「もうやめましょう」という人が何人かいた。
もし、実験に参加している人が1000人ずついて、
やめましょう、と言う人が一人だったら、
実験を中止にできたのかな、と思うと、ぞっとした。
でも現実には、どこの国でも、過去にも、
今も、同じようなことが起こっている。
きっと、起こっている最中には、スイッチを押していた人みたいに、
気がつきにくいんだと思う。
でも、誰かがどこかの時点で、あれ?と思って、
大勢の人が、あれ?と思うようになると、変わるのかもしれない。
ちょっとおかしいな、という感覚は、とても大切だと思う。
「ちょっとおかしいと思うんです」と言える環境ができるかどうかは、
言う人に勇気がある、ということでもなく、
集まっている人みんなが「自分が本当にしたいこと」を、じっくり考えたり、
それを話できたり、行動できたりする時なのかも、と思う。
叔母は「病気」だと名づけられ40年入院し、老人ホームで亡くなった。
もし、「自分が本当にしたいこと」を、じっくり考える人たちの中にいたら、
一生病気だった、と言われることはなかったかもしれないし、
本当に自分のしたいことを、じっくり考えられたかもしれない。
「ちょっとおかしい」という感覚を磨くのと、
「おもしろいな、と感じて思わず戯れてみる」という感じ、
通じるものがあるように思う。
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