亡き父の誕生日、お墓参りは行かないまま、1か月が過ぎてしまったけど、
一つ、父との思い出を文章に残したいと思う。
小学生のころ、休みの日には父がよく車で、いろんな所に連れて行ってくれた。
海や琵琶湖が近かったので、景色のいい所をドライブしたり、
一滴文庫という所やら、神社やお寺もそこらかしこにあって、
一言神社やら姫神社彦神社には、何回も行った記憶がある。
そんな中で、大飯の原発PRセンターも割と近くにあって、何回か行った。
PRセンターは、入ると電気がついて、とても驚いた記憶がある。
田舎では「すいな建物」と表現する部類に入ると思う。
子どもにもわかるように、原子力の仕組みが模型で紹介されていた。
爆発するとすごい威力なので、ちょっとだけ爆発させている、
ちょっとの爆発で充分、生活できる電気が出来る、
という説明があって、なんか怖いなと思った記憶がある。
爆発をコントロールなんてできるんだろうか、と思った。
でも、実際に今コントロールしている、と聞いて、驚いた。
「危なくない?」と父に聞いたら、
「わからない」と言っていた。
何を聞いても、「さあな、どうなんやろな、わからんな」
と言っていたような記憶がある。
入ると自動で電気がつく意外に、あんまりおもしろかった記憶はなかったけど、
父と遊びに行くドライブは、時々PRセンターが入っていた。
そのたびに、ちょっとずつ私は、そこで何かを見ていた。
特に、父は私に何の説明もしない。
いい、とも、悪い、とも言わない。
感想も何も言わない。
ただ、その場に連れていっているだけ、という印象だった。
小学校では、原発が爆発したら、福井県の人は県外に出られなくなる、
ガチャンと柵がおりて、周りに空気が漏れないように、
人も出られないようになるんだ、というウワサが広がったりしていた。
そんな話を父にしても、ドライブでPRセンターに時々行く、というのは変わらなかった。
原発のない市に住んでいたので、冷房なし、煙突ストーブが当たり前だと思っていたら、
原発のある町村の学校は、小学校から冷暖房完備だったと聞いて、
うらやましかったのも覚えている。
中学校の頃、ニュースで原発のことが批判されているのも見たし、
同級生の親が、原発で働いているというのも、聞いたりした。
仕事のない田舎で、食べていくのは大変だ、と母は言っていた。
そういうことについても、父に話したが、いい、とも、悪い、とも、
何も言わなかった。
中学生の頃は、はっきり意見を言わない父を情けないなと思ったりもした。
でも、今思うと、何も言われなかったから、いろいろ感じることができたのかもしれない。
批判も称賛もしないで学ぶ場を作る、というのは、とても難しいことなのかもしれない。
ある時、PRセンターの帰りに、一滴文庫に寄った。、
東京から来ていた、見知らぬ老夫婦が、父に写真を撮ってと頼んでいた。
父は写真も大好きで、人と話をするのも大好きだったので、
喜んで写真を撮っていた。
ちょっと明るいおばちゃんと、無口なおじさん。
おばさんは、死ぬ前に一度来てみたかったとキラキラ話していた。
最後に一緒に写真を撮りましょうと、おばさんは言って、
無口なおじさんは、カメラマンになっていた。
東京には何でもあると思っていたので、人が誰もいないような、
古い家を楽しみに見に来るなんて、変わった人もいるもんだと、思った。
写真を送りたいからと住所を聞いていて、
後になって、本当に写真が届いた。
今も、たぶん昔のアルバムに残っている。
学ぶって、思いがけない。
ひょんなことから、ふいに学べることもある。
楽しい。
眉間にしわを寄せなくても、眠気を我慢しなくても、大切なことを学ぶことはできるんじゃないかと思う。
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