2014/05/14

名前を伝えるということ

自分の名前を伝えることほど面倒なことはない。
はじめに、私が名前一つでひねくれるようになったのは、
名前が悪いからだ!!!と、責任逃れをします。

私は「優子」という名前。
名前を聞かれて漢字を説明するたびに、
「じゃあ、優しいんですね」と言われることが多かった。

優しいんですね?ってなんだ?

優しいんですね、と言われるたびに困惑してきた。
優しいかどうかはわからない、
優しい時がないわけでもないが、優しくない時もある、
優しくしなければいけないんだろうか?
そもそも、優しいとは何なんだろうか、

わからない・・・だんだん腹が立ってくる。

今日は人に優しくできなかったな、と思った日に限って、
この優しさとはなんだろう?というワナに、はまってしまう。

この名前でなければ、こんなに優しさについて考えなくてもいいのに、
と、また、腹が立つ。
あああ、疲れる。

少し年を食って、最近では、名前の漢字を説明する時に、
「優しい子と書きますけど、優しくはないです。名前だけです。」
と、言うようになった。
そうするようになってからは、優しいんですね、
とは言われなくなったように思う。

ただまあ。
伊賀さんという人に出会った時に、
「祖先は忍者ですか?」
と、瞬時に口から出ていた自分のことを思うと、
「優しいんですね」も、そう深い理由はないんだろうな、
とは思う。

名前だけで、人から何度も繰り返し言われることが違う、
とすると、一人ひとり見た目も何もかも違うわけなので、
だれが、周りの人から、どんなことを言われ続けているかなんて、
わからないもんだな、と思ったりもする。

名前を聞いて、はあ、そうですか、というのも失礼かな?
と思う時もあったりするけど、
自分は、はあ、そうですか、と言われたいなと思う。

いったい、どうすりゃいいんだ・・・。
ああ、面倒だ面倒だ。

名前は面倒だ、と思うけど、
誰にも名前がなかったら、
それはそれで、困ることもあるのかもしれないな、
と思ったりもする。

2014/05/12

会話ではない話

人話すとすごく疲れる時がある、と、ふと思った。
疲れない時もある。
どうしてだろう?

言葉を聞いて、頭を使って疲れているような気がするときもある。

私はクロネコと一緒に育った。

たぶん私が3~4歳くらいだった頃のある日。
5歳年上の姉が、排水溝に落ちて死にそうだったと、泥だらけのネコを拾ってきた。
ネコを拾ったせいで、同じように泥んこになっている姉を見て、
母が、そんな危ない目をして、拾ってきたっていったいどうするの!
とぎゃーぎゃーと半分怒っていたが、
とりあえず洗ってみようということになって誰かが体を洗った。
泥だらけで、ミーミー泣くネコは、洗ってもきれいにならず、
毛が乾いた所で、みんな、ああクロネコだ!と気がついた。

家族中で、こんなに小さいのに何を食べるんだと大騒ぎになり、
牛乳をあげてみよう、ニボシをあげてみようと、母がお皿に出したら、
どんどん食べて、みんなで「よかった~」と言ったのが記憶にある。
それからしばらく、そのネコのために、
山もりのニボシと牛乳が玄関に置かれるようになった。

その日から高校を卒業するまで、そのネコと一緒に暮らし、
私が22歳の時、父に看取られるまで、18年くらい実家に住んでいた。

4人兄姉の末っ子だった私は、そのネコと、よく一緒にいた。
小さい頃は、いたずらをしては、ひっかかれたり、遊んだりした。
中高生くらいになると、気心のしれた仲になって、
なんとなく、ちょっと顔を合わせるだけの時期もあれば、
部屋で長い時間、話をすることもあった。
もちろん言葉で会話はしたことはない。

結構気ままに、どっかに行ってしまうこともあったけど、
なんとなく私が元気のないことがわかると、
出かけるのをやめて、近くにいてくれたりした。

かとおもえば、私が宿題に追われて必死で机に向かっている時に、
開いているノートの上に、ドカーンと寝そべってきて、
どかしてもどかしても、私の目の前にどどーんと寝て動かない時もあり、
そういう時は、ノートを横にずらして、頭をなでながら宿題をした。

不思議と、お互いに、今相手がどんなことを思っているかが、
なんとなくわかっていたような気がする。

時々「私は、あんたが死んだら生きて行けないような気がする、長生きしてね」
という話をした。
クロネコは、お腹をゴロゴロいわせながら、澄ました顔で、
ちょっと耳をぴくっとさせて聞いていた。
「私はあんたがいなくても、ご飯をくれる人がいたらいいけどね」
と言っているような顔で。

会話はしてないはずなのに、なんとなく話が通じているような気がした。

人と話す時も、ネコと話をしているような感覚で会話できる時は、
疲れないなあ、と思ったりする。

クロネコとの思い出を思い出しても悲しみに呑まれないくらい、
時間が過ぎてくれたのは、ありがたいことでもある。
まだ、思い出を書こうとすると、手が止まってしまう時もあるけど。

もし、あのクロネコと会っていなかったら、どうなってしまったんだろう、
と恐ろしくなるときもある。
ゴロゴロとかわいい所も、生まれた時に充分に育ちきっていない子どもを食べる習性を見た時も
ネズミを捕獲してきたことも、戦って傷だらけになって帰ってきたことも、
起きると私のお腹の上で寝ていたことも、
買って1か月のウォークマンに、おしっこをかけられたことも、
ネコとの生活は、答えの出ない、いろいろが詰まっていた。
それがなければ、今以上に傲慢な人間になっていたんじゃないか、
と思うと、本当に恐ろしい。

動物を助ける、というのが一方通行になることは、ありえないんだなと、しみじみ思う。

人を助ける、動物を助ける、そういうことが一方通行になった時に、
あなたのために頑張っているのに、どうして・・・
どうしてこんなにしているのに、思う通りにならないんだろう、
っていうような怒りが湧くのかな?
と、ぼんやり思ったりもした。


なんだかんだ言っても、
ひとつだけ声を大にして言いたいこと。
それは・・・

私はネコがすきだ!

ということです。

2014/05/08

あがきたくなる時

自分が自分で無くなるような感覚が時々来る。

急にくる。

急に、ペトっとまとわりつかれて、

重たくのしかかってくるような感じがする。

こういう時は、何もうまくいかないように感じる。

そのうち、そんなこともスッと忘れてしまうほど、軽やかな感じがくるのもわかってる。

のですが。

早く何とかなってくれたら、と、思う。

2014/04/26

何が違う?

思いつく限り自分の力を発揮したい、と思える時と、そうでない時がある。

仕事で、こんな面倒なことやってられない、と思う時は、
時間外の仕事なんかあると、どうして残業しなければならないのか?と
誰に言うでもない不満を、ふつふつと自分の中に貯めたことがある。

かとおもえば、こうして、こうして、これをしよう、と仕事をしていると、
時間外であっても、これもしておこう、とみるみる力が湧いてくる時もある。

なにか違いってあるのだろうか?

きっと違いはあるのだろうけど、よくわからない。

今週は、とても忙しくて、本当に心を亡くしかけたりしたけど、
寝て起きて、週末で休みになった途端に、
ああ、あれは、次はこうしてみよう、とか、これを提案してみようとか、
朝から、もうやる気が湧いているのが、
自分でも不思議でしょうがない。

いつでも、自分がこうした方がいいのではないか、
と思いつく最善の策を話したり、試したりできる、
からなのか。

どんな人が面接に来ても、よく話を聴いて、
一緒に働けないかどうかを、じっくり考える、
上司の姿を見たからなのか?

何があっても、あっけらかんと、内に入り込む前に、
さらっと軽い現実に戻してくれる同僚がいるからか。

どうしても起きられないから遅刻します、ごめんなさい、
と誰もが言いやすい環境だからなのか。


仕事が大変だと感じるのは、量や事の重大さではなく、
一緒に働く人による、とい言っていた人がいた。

本当に、そうなのかもな、と思う。

一緒に働く人を信用できなくなったら、
仕事って途端に大変になるのかもな、
ということも、頭をかすめた。

2014/04/06

天気

桜が咲いたのに、今日は雨かあられと、予報で出ていたけど、
朝起きたら、あまりにもいい天気!

タオルケットを洗って干してしばらくしたら、急に雲行きが。。。

天気予報、あたるんですね。
わ~雨降ってきた!!!

2014/03/23

2014.2月IPS矢花に参加して

2月に、札幌の3日間と、東京の5日間に参加した。
早いもので、あっという間に3月になってた!

どちらも味わい深くて、ゆったりとした流れを感じる時間だった。
文字にして残しておかないと、忘れてしまうな、と思っていたけど、
すぐには文字にできず、細かいことはすでに・・・忘れてる。。。

今も残っている感覚で、感想を書いてみます。

札幌の3日間で印象に残っていることは?
今、一番に思い出したのは、3日目のお昼に食べたスープカレーがおいしかったこと。
味覚ってすごい。
スープカレーをお昼に食べながら、食べた時に話してたことも思いだしてきた。
加害者の気持ちと被害者の気持ちについて。

そうそう。即座に「信じられない」と判断をして怒る、というようなことは、
誰も得しないな~、と、3日間の間に何度も感じた。
人に対してもそう、自分に対してもそう。

演習で、自分の感情を味わったり、他人の感情を味わったりしているうちに、
自分に対しても、なんでこんなことできないんだ、とか、
結構ひどい言葉が、自分に対してチラついて、
この人も同じ痛みがあるのかも?と、頭にチラついたりすると、
その痛みが、自分の痛みか他人の痛みか、よくわからなくなってきた。

きっと、いつも、まっさらな気持ちなら、
悲しんでいる人が前にいたら、悲しい。
自分が悲しいという話をしている時に、ケタケタ笑う人はいない。
何かしたい、元気を出してくれたらな~と思う。

てなことが、すっかり頭から抜けてしまう場面が、日常ではたくさんあるなと思った。
過去の記憶とか、いろんなものが入ってくると、ややこしい。

実際にカチンとする場面を練習してみたりすると、
練習なのに、カッチーンときて、腹が立ったり、頭が真っ白になって、
この人は自分を苦しめようとしてるのか~と思ったりする。

人って、そんなもんですよね、自分も他人も。
頭に血が上らない人はいないし。


東京の5日間も、札幌に引き続き、自分の出来なさかげんや足りなさ加減に、
腹が立つこととか、悔しいこととかも一つ一つ実感しながら、
そんなことを思っているな~と流してみるということをしていった。
すると、ほんとにちょっとずつではあるけど、
自分の、あの言動も、その時の精一杯だったんだからな~と思えたり、
他の人の受け入れがたい言動も、もしかしると、その時の精一杯だったのかな?
と思える場面が増えたような気がする。

3日間で、とか、5日間で、とか、何か劇的に変わったわけではないけど、
普段は無視しがちな、小さな小さな自分の声に、
じっくり耳を傾けられた時間だったなと思う。

日々の中で、ちょっと疲れたと感じられた時に、
ふっと立ち止まって、小さい自分の声を聴けたらいいな、と思う。

のですが。

日々の中で立ち止まるってのが、余裕がなくなると、とても難しくなるので、
たまには、数日間ぎゅっと立ち止まれる時間を持てたらいいな~と思う。

2014/03/15

ゆったりした朝に

休みの日の朝、ゆったりパンを食べ、お茶を飲みながら思う。

何をするでもなく、ゆったりとした時間を感じられるって、贅沢。
なんてことを感じられるのは年を取った証?

そうこう考えてるうちに、頭が過去に飛ぶ。


大学生の頃は休みの日は忙しかった。
お腹が減って、食べ物が無いときは、
朝、パン屋が開くと同時に、パンのみみを買う。
10円くらいで大量に入っていて、多いのから順に売れていく。
近所のおばちゃまに負けるわけにいかない。

パンのみみの次は、スーパーが開く時間に行く。
土日は、ウインナーとか、いろんな試食が出やすい。
しかも、出来立ての、あつあつ。

夕方のバイトまで食いつなぎ、バイトに行けば、余った惣菜などが手に入る。

土日が勝負だったので、土日の朝が忙しかった。


今は、休みの日に、ゆったり1日を始められる。

焦りもなく、休みの朝のゆったりを感じられるのに、20年かかってるな〜と思う。

いろんな場面で焦りが少しずつ小さくなって、
ゆったりと時間を感じられることが、年々増えている気がする。

年を重ねるのも悪くない、と思った。